最後まで、奇跡を呼ぶ子だった。――12年間を生き抜いた彼女へ
「お父さん、かっこいい聞きたい」
「お父さん、かっこいい聞きたい」
彼女がよく口にしていた言葉です。何のことかといえば、THE BLUE HEARTSの『情熱の薔薇』。
12歳の女の子が、なぜブルーハーツなのか。その理由を本人に尋ねたところで、きっと明確な答えは返ってこなかったでしょう。けれど、彼女にとっては、それが「かっこいい」音楽だったのです。
好きな曲が流れれば、目がなくなるほどの笑顔を浮かべ、ぴょんぴょん跳ねながら踊る。そこには、周囲の目など気にしない、彼女だけの自由な世界がありました。
彼女の趣味は、なかなか幅広いものでした。映画なら『グーニーズ』や『天使にラブ・ソングを…』。ミニオンズ、機関車トーマス、おさるのジョージ。『おげんさんといっしょ』も好きでした。
加えて、なぜか『それ行けカープ』。
2台のiPadを並べ、次から次へと好きな映像を楽しんでいました。ちなみに、その2台のことを彼女は「iPadさん」と呼んでいました。機械にまで敬称を付けるあたり、なかなか律儀です笑
皇室の方々も大好きでした。
「天皇さん、皇后さん、好き。」
「愛子ちゃん、好き。」
天皇陛下と皇后陛下には「さん」を付けるのに、愛子さまだけは「ちゃん」。なぜか愛子さまだけ、親しいお友達のような距離感です。
そして、中でも一番の推しは天皇陛下。
12歳にして、推しは天皇陛下。
何とも渋い女の子でした笑
時には、ウクライナ情勢のニュースを見ていることもありました。音楽に映画、皇室に国際情勢。
我々の間では、「彼女の中身は結構なおっさんなのではないか」という疑惑さえありました笑
そんな彼女の旅立ちに、我々が選んだ曲が『情熱の薔薇』です。
出棺にブルーハーツ。少し意外に思われる方もいるかもしれません。しかし、彼女を知る我々にとっては、これほど自然な選曲もありませんでした。
今日、彼女はその大好きな曲に送られ、旅立ちます。音楽が流れれば、今にも笑いながら踊り始めそうな気がします。
笑うと、目がなくなる彼女
彼女が生まれたのは2014年。我々が新たな住まいを構えた翌年のことでした。
それから12年。その存在は、我々の日常に、実にたくさんの笑いをもたらしてくれました。
彼女には重い知的障害がありました。12歳になっても、発達の程度は3歳ほど。使える語彙は決して豊富ではありませんでした。
ところが、人とのコミュニケーションとなれば、むしろ誰よりも積極的でした。
見知らぬ人を見つければ、自分から近づいていきます。
満面の笑みで「こんちわ!」
相手が笑顔を返してくれれば、もう彼女の独壇場。相手が誰なのか、どんな立場の人なのか。そんなことは、彼女にとって大した問題ではなかったのでしょう。
まず、自分から声をかける。そして、相手の反応を楽しむ。語彙の少なさを、表情や仕草、持ち前の積極性で軽々と飛び越えてしまうのです。
皆、彼女を「コミュニケーションモンスター」と呼んでいました。まさに、言い得て妙です。
そして、彼女には忘れがたい顔立ちがありました。
きれいなアーチ型の目。
長いまつ毛に縁取られたその目は、笑うとさらに細くなり、ついにはほとんど見えなくなってしまうのです。
目がなくなったように見えるほど笑っているのに、まつ毛だけは妙に存在感がある。その顔を見ると、こちらまで笑ってしまいます。
学校でも、同級生や先生方との交流を楽しんでいたようです。自分から人の輪に飛び込んでいく。言葉の数ではなく、人と関わろうとする力そのものが、彼女の大きな魅力でした。
もっとも、いつも愛想よく笑っていたわけではありません。怒ると、なかなか厄介です。
無言。
無表情。
そして、相手の手をじっと見つめる。次の瞬間、指を折ろうとしてくるのです。何とも独特な抗議方法でした笑
ところが、同級生には、そうしたことを一切しなかったそうです。その対象は決まって大人。彼女なりに、相手との距離感や関係性を理解していたのでしょうか。
好き嫌いも、喜怒哀楽も、はっきりしている。限られた言葉と豊かな表情を使い、周囲の人々を自然と自分の世界へ引き込んでいく。
彼女は、そんな一人の人間でした。
彼女だけの言葉、彼女だけの世界
彼女との会話は、時として謎かけのようでした。
例えば、温泉。
彼女は温泉のことを「おっきいお風呂」と呼んでいました。
左手をグーにして、頬をスリスリしながら、「おっきいお風呂、行く?」と尋ねてくるのです。彼女は左利きでした。その左手の仕草と独特な言葉は、今も鮮明に覚えています。
カルピスは「おいしいジュース」。
ブルーハーツは「かっこいい」。
正式な名前など、彼女には大して重要ではなかったのでしょう。
自分が感じたことを、自分の言葉にする。
その表現が、実に面白かったのです。
牛乳とウィンナーも大好物でした。
しかも、ウィンナーなら何でもよいわけではありません。銘柄は『アルトバイエルン』指定。そこには、なかなか譲れないこだわりがありました。
帰宅すると、さっそく確認が始まります。
彼女:「牛乳は?」
彼女:「ウィンナーは?」
我々:「無いよ!」
彼女:「あるよ?」
我々:「じゃあ、どこにあるの?」
彼女:「知らない」
知らんのかい!笑
何とも理不尽なやり取りですが、これが実に楽しい。彼女は限られた語彙を使いながら、我々に考えさせ、答えさせ、時には見事に振り回してくれました。
韓国海苔やフライドポテトも大好きでした。
学校へ行きたくない日には、突然、わざとらしい咳を始めることもありました。
「ゴホッ! ゴホッ! ゴホッ! ○○ちゃん、風邪ひいた。学校、お休み。」
あまりにも分かりやすい仮病です笑
もちろん、本人としては一生懸命に考えた作戦だったのでしょう。
こうした何気ない会話の一つひとつが、我々の日常にありました。
飛行機の前の、小さな儀式
店主は仕事柄、全国各地を巡っています。
遠征先から帰宅すると、彼女は決まって駆け寄ってきました。あの、目がなくなるほどの笑顔で。
そして、こちらに背中を向けて立つのです。両手を真横に広げ、まるでアルファベットの「T」の字。それが、店主と娘の「飛行機」の合図でした。
彼女は店主と同じ方向を向いたまま、両手を広げて待っています。そこで、まずは身体をくるりとこちらへ向ける。そして、ぎゅっと抱きしめる。それから抱き上げ、飛行機のように飛ばしてやるのです。
幼い頃はよかったのですが、体重が40kgを超えてからは、なかなかの重労働でした。それでも、彼女は当然のように背中を向け、両手を広げて待っています。こちらの体力事情など、知ったことではありません笑
普段は2台のiPadに夢中で、話しかけても「うん」「あぁ」と、何とも気のない返事をすることがありました。
それなのに、遠征から帰ったときだけは別。あの飛行機の儀式が始まるのです。
何度繰り返したことでしょう。あの小さな儀式が、我々親子の再会の形でした。
姉との関係も、実に微笑ましいものでした。普段はさっぱりした性格の姉が、妹には妙に甘い。「大好き、ギュー」と抱きついては、妹にそっけなくかわされる。
ところが、お風呂になると立場が逆転します。
「おねーちゃん、お風呂ー! 入ろー!」
今度は彼女の方から姉を誘うのです。そんな2人の姿を見ながら、我々は何度笑ったことでしょう。
当たり前のように繰り返されていた日常。今、思い出すのは、そうした何でもない時間ばかりです。
9歳の彼女が起こした奇跡
彼女は生まれつき、心臓に問題を抱えていました。心臓には約8mmの穴があり、経過によっては処置が必要になると説明されていました。
ところが、9歳の頃。検査をしていた先生が、何度も画像を確認しながら首をかしげたのです。
「あれ? ん?? おかしいな……穴がないな……」
本来あったはずの穴が、閉じていたのです。その後、循環器の定期受診も終了しました。
我々にとっては、思いがけない喜びでした。あのとき、彼女は一つの奇跡を見せてくれたように感じました。
しかし、2025年春。
思いもよらない病が、彼女を襲いました。
始まりは、風邪のような症状でした。薬を飲み、様子を見ていたものの、高熱が続き、普段とは違う様子が見られるようになりました。
2025年4月30日、救急搬送。
当初は、原因もはっきりしていませんでした。検査を重ね、後に判明したのが細菌性髄膜炎でした。
入院して間もない頃、彼女はまだ言葉を話すことができました。
「一緒に帰ろ?」
「おうち、帰る」
いつもの家に帰りたかったのでしょう。2台のiPadがあり、好きな音楽があり、我々がいる。彼女にとっての当たり前の日常へ、戻りたかったのだと思います。
あるとき、医師が店主を指さして尋ねました。
「誰だかわかる?」
彼女は答えました。
「お父さん」
それが、店主の記憶に残る、彼女の最後の言葉となりました。
あれほど賑やかだった彼女が、少しずつ言葉を失い、そして意識を失っていく。
2025年5月6日には集中治療室へ入りました。危機を乗り越えた後も、彼女が以前の姿に戻ることはありませんでした。
自分の力で呼吸することができず、人工呼吸器に支えられる日々。脳幹の萎縮も進み、意識が戻ることはありませんでした。
それでも、彼女の心臓は動き続けていました。
我々は、できる限り彼女のもとへ通いました。手をさすり、目元をきれいにし、声をかける。好きだった音楽を流し、映画を見せる。
学校の先生方も、何度となく病室へ足を運んでくださいました。彼女が好きだった本を持ってきて、そばで読み聞かせをしてくださることもありました。
以前のように笑ったり、言葉を返したりすることはできなくなっていました。それでも先生方は、彼女に語りかけ、変わらず一人の生徒として接してくださいました。
店主は、入院以来、一つのブレスレットを身につけていました。水晶に、1粒だけ金色のルチルクォーツを配したものです。彼女の髪を結ぶシュシュにも、同じ組み合わせを添えました。
離れて仕事をしている間も、回復を願い続けるためでした。
起死回生。
その願いを込めて、身につけ続けたブレスレットです。石を扱う仕事を20余年続けてきましたが、これほど切実な願いを込めたことは、そう多くありません。
もう一度、あの笑顔を見たい。もう一度、あの声を聞きたい。そして、もう一度、彼女を抱きしめて飛行機をしてやりたい。
ただ、それだけを願っていました。
最後まで、奇跡を呼ぶ彼女
約1年半。彼女は意識を失ったまま、懸命に生き続けました。
そして、一昨日。2026年10月28日。
いよいよ最期が近づいたとき、学校の先生方が次々と会いに来てくださいました。10人を超える先生方が、入れ替わりながら彼女に声をかける。
すると、止まりかけていた心拍が、再び持ち直すのです。
一度ではありません。先生方が交代し、声をかけるたびに、同じようなことが繰り返されました。
主治医の先生も、普通ではなかなか見られない反応だと話してくださいました。
先生方が声をかけるたびに、もう一度。また、もう一度。
その光景は、今も鮮明に目に焼きついています。最後の最後まで、彼女は我々を驚かせてくれました。
2026年10月28日 16時13分。
彼女の心臓が、静かにその役目を終えました。
12年間。そのうちの約1年半は、意識を失ったままでした。それでも彼女は、最後まで懸命に生き抜きました。
そして翌日、2026年10月29日。葬儀場には、30人ほどの先生方が足を運んでくださいました。
現在お世話になっている先生方だけではありません。すでに異動された先生方も、高等部の先生方も。同級生も、お母さんと一緒に会いに来てくれました。
人が好きで、人との交流を楽しんでいた彼女。
今度は、彼女のもとへ大勢の人たちが会いに来てくださったのです。
一人の人間が12年間を生きた。その時間の中で、これほど多くの人の心に、自分の存在を残していた。親として、これほどありがたいことはありません。
3度の危機と、不思議な巡り合わせ
約1年半の闘病生活の中で、彼女には3度、命の危機がありました。
最初の2度はICUで。そのたびに彼女は危機を乗り越え、懸命に生き続けてくれました。そして3度目となった2026年10月28日、彼女は旅立ちました。
不思議なことがあります。
店主は仕事柄、全国各地を巡っています。九州の外にいることも多く、地元を離れて過ごす時間は決して短くありません。
ところが、彼女が命の危機に直面した3度とも、店主は地元にいたのです。
1度だけなら、偶然でしょう。2度でも、そうかもしれません。しかし、3度とも。
全国を巡っているにもかかわらず、彼女の命に関わるときには、必ず地元にいる。
彼女は、いつもお父さんが帰ってくるのを待っていてくれたのではないか。
お父さんが戻るまでは、もう少し頑張ろう。もう一度、会えるまでは。
そんなふうに考えると、胸がいっぱいになります。
思えば、父が亡くなった当日、店主は大分にいました。母が亡くなったときは、福岡市内にいました。そして娘が旅立ったときは、地元にいました。
全国を飛び回っているにもかかわらず、大切な人たちとの別れが、いずれも九州にいるときに訪れた。
彼女の3度の危機に際して、3度とも地元にいられたこと。その巡り合わせを、父親として大切に胸に刻んでおきたいと思います。
2度の夜道、そして今日
一昨日、彼女が旅立った夜。店主は、大分へ向けて車を走らせました。翌朝11時から、予定していた鑑定会が始まるためです。
我々で話し合った末、店主は通夜にも葬儀にも参列せず、仕事を続けることを決めていました。
これまでにも、大切な人を亡くした直後に仕事へ向かったことはあります。しかし、今回ほど出張に出たくないと思ったことはありませんでした。
父や母を見送ったときにさえ、抱かなかった感情です。
できることなら、ずっと彼女のそばにいたかった。けれど、車を走らせました。20余年、そうして歩んできたからです。
昨日、2026年10月29日。大分での鑑定会を終えた後、再び北九州へ戻りました。どうしても、もう一度彼女に会いたかったのです。
翌朝も大分で仕事が控えていました。それでも、彼女の顔を見て、手に触れ、そばで時間を過ごしたかった。どれだけ短い時間だったとしても。
もう、あの笑顔で駆け寄ってくることはありません。「お父さん、かっこいい聞きたい」と言ってくれることもありません。
それでも、もう少しだけ一緒にいたかったのです。
彼女のそばで、これまでの思い出を一つずつ振り返りました。
牛乳とウィンナーの謎かけ。左手で頬をスリスリする仕草。わざとらしい仮病。無表情で指を狙う姿。音楽に合わせて跳ねる姿。背中を向け、両手を広げて待っていた、あの飛行機の合図。
思い出せば、次から次へと話が出てきます。あれほど使える語彙が少なかった彼女が、こんなにも多くの物語を残していた。そのことに、改めて気づかされました。
そして、再び夜の道を大分へ。
今日、2026年10月30日。店主は今日も鑑定会に臨みます。
彼女の葬儀は、14時からです。その時間、店主は大分にいます。彼女のそばには、いられません。
それでも、父親として、彼女を送り出したい。だからこそ、今、こうして文章を綴っています。
石屋蓮として歩み始めて、20余年。店主はこれまで、動くこと、挑むこと、道を拓くことを大切にしてきました。
「動けば道は見え、動かざれば道は見えず。」
そう信じて、歩み続けてきました。しかし、人生には、これまでと同じ歩幅では進めないときもあるのでしょう。
何を守り、何を手放し、何を新たに築いていくのか。今はまだ、答えが出ません。
これまで当然のように続いていた日常が失われた今、仕事も、暮らしも、これからの生き方も、改めて見つめ直す時期に来ているのかもしれません。
それが一時の休息になるのか、歩む道を変えることになるのか。あるいは、まったく違う形で、新たな一歩を踏み出すことになるのか。
今は分かりません。ただ、今すぐ答えを出す必要もないのでしょう。
今日は、彼女を送り出す日なのですから。
娘へ。
今日、あなたを送り出す日が来ました。
お父さんは今、大分にいます。あなたのそばにいて、最後まで見送ってあげることができません。
本当は、そばにいたいです。
もう少しだけ、あなたの顔を見ていたい。もう少しだけ、その手に触れていたい。できることなら、今日という日が来なければよかった。
そんなことを考えています。
お父さんは、これまで何度も全国を巡り、家を空けてきました。
帰ってくれば、あなたがいる。それが、いつの間にか当たり前になっていました。
でも、もう帰っても、あなたは駆け寄ってきてくれないのですね。
あの笑顔も、あの声も、抱き上げたときの重さも、今はまだ、すぐそばにあるような気がします。
もっと一緒に過ごしたかった。
もっといろいろな場所へ連れていってあげたかった。あなたが喜ぶ顔を、もっとたくさん見たかった。
そして、もう一度だけでいいから、元気なあなたを抱きしめたかった。
去年の春、あなたが病院に運ばれてから、お父さんは何度も回復を願いました。
きっとまた目を開けてくれる。いつか、いつもの声を聞かせてくれる。そう信じたかったのです。
病室で眠るあなたに声をかけながら、何度も思いました。
何もしてあげられなくて、ごめんね。
代わってあげることも、苦しみを取り除いてあげることもできない。父親なのに、ただ願い、見守ることしかできませんでした。
それでもあなたは、約1年半もの間、生き続けてくれました。
そして、最後の日。
先生方が次々と会いに来てくださり、声をかけるたびに、あなたの心拍が何度も持ち直しました。
お父さんは、その様子をそばで見ていました。
あの時間を、お父さんは一生忘れません。
あなたの心臓が止まったとき、悲しいのと同時に、心のどこかで「よく頑張ったね」と思いました。
それほどまでに、あなたは長い時間を生き抜いてくれたのです。
昨日は、たくさんの先生方やお友達が、あなたに会いに来てくださったと聞きました。
あなたは、たくさんの人に愛されていたのですね。
でも、それはきっと、あなた自身がたくさんの人を好きになり、自分から心を開いてきたからなのでしょう。
お父さんが教えてあげたことよりも、あなたから教わったことの方が、ずっと多かったのかもしれません。
人を好きになること。嬉しいときには思いきり笑うこと。会いたい人には、自分から近づいていくこと。
あなたは、そんな大切なことを、難しい言葉など使わずに教えてくれました。
これから、家に帰るたびに、あなたのいない日常と向き合うことになるのでしょう。
2台のiPadも、いつもの場所も、あなたが好きだったものも、きっとそのまま残っています。
そこに、あなたの声だけがありません。
お父さんはこれまで、前へ進むことを大切にしてきました。
けれど今は、これからどう歩いていけばよいのか、まだ分かりません。
今までと同じように頑張れるのか。少し休むことになるのか。それとも、これまでとは違う道を選ぶのか。
今は、何も決められません。
それでも、あなたと過ごした日々まで失われるわけではありません。
あなたが笑っていたこと。怒っていたこと。甘えてきたこと。お父さんを振り回していたこと。
その一つひとつが、これからもお父さんの中に残り続けます。
今日、あなたは大好きな『情熱の薔薇』に送られて旅立ちます。
お父さんは、その場にはいられません。
けれど、離れた大分の空の下から、あなたの旅立ちを想っています。
12年間、お父さんの娘でいてくれて、ありがとう。
生まれてきてくれて、ありがとう。
たくさん笑わせてくれて、ありがとう。
そして、最後まで、本当によく頑張りました。
あなたと過ごした12年間は、お父さんにとって、かけがえのない宝物です。
もう一度会いたいという気持ちは、きっとこれからも消えません。
それでも、お父さんは、あなたが生きてくれた12年間を、悲しい思い出だけにはしたくありません。
あなたが笑っていたこと。たくさんの人を笑わせていたこと。あなたらしく、精いっぱい生きていたこと。
そのすべてを、大切に抱えて生きていきます。
あなたは私の誇りです。
いってらっしゃい。
お父さんより。
追記|最後の通学路
2026年10月30日、午後。
この記事を公開してから数時間後、長女から連絡が入りました。
「今、出棺したよ」
火葬場へ向かう霊柩車のルートには、彼女が通っていた支援学校の前を組み込んでもらっていました。
そして、霊柩車が学校の正門前を通過したとき。
そこには、先生方全員が並び、彼女の旅立ちを見送ってくださっていたそうです。
その話を長女から聞き、涙があふれました。
約1年半もの間、学校へ通うことができなかった彼女。
その最後の通学路に、こんなにも温かな光景が待っていたとは。
先生方、本当にありがとうございました。
最後の最後まで、娘がどれほど多くの方々に愛されていたのかを、改めて教えていただいた気がします。
離れた大分の地で、その光景を思い浮かべながら、ただただ感謝の気持ちでいっぱいです。
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